ある村で、水害に備えて堤を作ろうとかいう場面を考えてみます。
村の人々が話し合って、お金を出し合って、
あるいは作業を分担してその工事は行われた時代が長く続いたと思います。
裕福な家は、余分にお金を出す
(貨幣が流通していたかとか、貨幣そのものが成立していたかという話はとりあえずおいといて)
という了解されたルールがあったかもしれません。
お金が出せなければ労務を提供し、
作業する人たちの炊き出しに協力する人や、
歌や踊りではやし立てる人々もいたりしたのだろうと想像します。(性差別のお話ではありません。)
そして現代、数百年前のそんな時代と同様に、
まさに「治者と被治者の自同性を有する」民主主義の世の中であると思っています。
民主主義の世の中では、税金を払って行政サービスを受けるというシステムは、
理論的に誤り無く機能するはずでした。
たとえ、「ある村」というコミュニティーが広がってより広い地域(国とか)で
税(お金を出し合って)を徴収され、
それを使って様々なサービスを提供されると考えても、
治める者と治められる者が一致してさえいれば、問題なく機能するはずでありました。
そして、実際に、村が国に広がることで、
規模の経済性というメリットや地域格差を埋める相互扶助という理念の上でも、
効率よく機能するシステムであったと思います。
特に戦後復興の時代、高度成長の時代、中央集権型の行政主導の社会づくりは、
とても効率よく機能したと思います。
いつの頃からか、
EU諸国全体や米国の土木予算が日本の土木予算と同じ位の額に上るようになり、
土木大国日本と言われ、
景気刺激に公共工事中心の予算が組まれ、社会資本整備は進みました。
しかし、一方で、(村から)行政規模が拡大した国家という制度
(相互扶助を考える地域範囲が広がったという意味で捉えて下さい)の中で、
国土の均衡ある発展という命題に隠されるように、
投資効果を過大に評価して、
公共投資を地域間で奪い合うことが起こりはじめました。
公正なルールに基づいて、均衡を持って社会資本の整備を進める。
そういう公目的で判断される投資がすべてであれば良いのですが、
外形はルールがあるように見えても内実は、
政治家同士や省庁間の綱引き(力比べ)やメンツ立ての結果採択された公共投資が
いつの頃からか増えて来たように思います。
その上に、政治家の力に頼み、
政治家を応援(選挙や日頃の活動資金などで)した見返りに自分の地方へ事業を引っ張る、
あるいは、自分の企業で工事を回したりしてくれました。
議員や知事、首長を応援するのは、
その公共投資が行われることで便益を受ける地元や地元業者であり、
大手業者や官僚の天下り先企業だったりして一層たちが悪かったりします。
前者は、
事業の必要性よりも地域間の綱引きで勝ったところに投資が行われるという結果を生み、
後者の場合は、
地域からの声よりも企業が必要として工事計画を決定するという
別の理論がまかり通ることにつながりました。
極論すると、国民の為と言いながら、
実は、工事業者の為の工事があるように思えてなりません。
「便益を正確に計り事業の優先順位を決定しよう」と言うルールが見せかけだけのもの
になっている現実があったと思うのです。
一方、その癒着を原因として、公共工事の工事単価が高止まり、
費用対効果の数値を悪化させているという問題もあります。
効果予測の甘さもさることながら、コストの問題にも目をやらなければならないのです。
公共工事の入札は、
予定価格より何%以上安い値を入れると落札できないと言うおかしなルールがあります。
おーっと、完全に話がそれてきました。
本当は本稿で「行政コストを見直すことが必要だ」と言うことをお伝えしたかったのですのに・・・。
ゴミを出さない社会にすれば、ごみ処理に使う税金は減ります。
ごみ処理を有料にして処理コストを料金の内でまかなえば、
税金をゴミ処理に振り向ける必要はありません。
同様に、例えば公共サービスを提供することを務めとする人員についても、
職能によらず勤務年数に応じた賃金体系を採るような公務員からサービスを受ける
「独占あるいは寡占的な市場」から、
ボランティァや民の手による、
住民自らが応分のコストでサービスを購入できる市場へと変えていけば良いのでは
ないかと考えているのです。
村の堤をつくるとき、誰も特別な利益を受けず、不当な手当を受け取る担当者もいない。
そんなごく自然なシステムに、
公共的なサービス市場を戻さなければならないと思っています。
「行政と住民の役割分担」の話に帰結するのかもしれません。
公共工事の多くが、また消防や警察を含めた行政サービスの多くが、
そもそも住民が集落などのコミュニティーの中で賄ってきたものであった
ということを基点にして、
それを「税金という料金を支払うことで行政に負わせている」ということを
認識出来れば社会の変革が出来るのではないかと思っています。